同窓会って昔から面倒であまり出席したことがない無精もんです。が、OB会ってのは別。
一緒に勉強した仲間の集いが同窓会。私は勉強不熱心ですから仲間は少ない。OB会は苦楽をともにした、古い言い方をすれば言わば戦友。だからこちらには何を於いても出席します。それに“本当のOB”じゃないのに仲間扱いしてくれて、“名誉OB”と言って必ず呼んでくれる。うれしいねぇ。
代表的なのが三菱重工サッカー部OB会。年一度、グランド集合。試合やってその後が飲み、食い、ダベリって流れ。
私はこの三菱重工サッカー部(現浦和レッズ)とは日本リーグ、JFLといってまだプロ化される前からのファン。と、いうより私、元祖サポーターだと自負していますから当然練習場にまで見学に行く。そこで「選手からボールの蹴り方教わって今日の私があると言っても過言でもない」、なァ~んて言い回しつかってみました。が、それが私の30歳チョイ過ぎくらいのころ。その当時三菱とヤンマーの2チームから日本代表が出来ていたというほど2チームは名選手揃いでしたね。
そこでサッカーを教えてくれた一人が三菱の二宮監督だったわけで、その後日本代表監督になり、そのときの代表チームOB会に私も入っているわけで、二宮さんには足向けて寝れない私です。
その1年後くらいに杉山って三菱の選手が引退、「天皇杯で優勝して辞める」って12月に入って聞かされ、元日の天皇杯まで残り3試合もないじゃないですか!
当時は特にそのような発表もなく、アマチュアは静かに去るってのがカッコいいとされていた時代。しかし噂はファンの間に伝わり、元日の国立競技場、決勝戦。同時に引退試合。満杯です、国立競技場。サッカー人気が今ほどではない時代、凄いことです。
それも優勝して辞めると言い切って実現、胴上げされて引退なんて、やっぱり杉山隆一って持ってるンだなァ、と。・・・・・
そのまた一年後、杉山隆一復帰。今度は故郷静岡のヤマハ(現ジュビロ磐田)ってチームの監督兼選手。当時のヤマハは静岡県リーグってレベル。元日本代表が考えられないね。杉山とは友人ですから、当然ヤマハファンになる。
いやはや静岡は遠かったァ。東名高速道路とばして3時間。
ま、そういう縁でもいまだにヤマハOBメンバーだと、こちらも年一度の総会には呼んでもらってます。
ここまでは趣味。本業の方では本年3月、初OB会というものに出席しました。
『少年サンデーOB会』・・・・・ 2年に1回やってるそうで、今回が3回目。週刊少年サンデー創刊1号からの編集者さんたちの集まりで、最高齢は高柳元編集長85歳。当日は約30名。
そこへ毎回ゲスト漫画家を1名招待ということだそうで、初回が古谷三敏さん。2回目、さいとうたかをさん。そして私ってことだったンですね。
毎年暮れにその小学館忘年会パーティでお会いしてお話しが出来ていた編集の方も、近年、定年退職される方も多く、話す相手も少なく寂しい思いをしていたものですから、喜んで出席の返事をしましたよ!
当日、神田の中華飯店の会場へ。例のごとくノンキ者の私、時間3分遅れ。会場へ案内され、なんか知らない顔ばかりと瞬間は見えたのですが、席へ座り落ち着いて見渡し、挨拶の順番が回ってくるころには次々と顔とエピソードが判明、「歳、とったなァ」と。
マイク片手に第一声は思わず込み上げてくるものがあり、目がうるうるって、若い人の表現そのままになっちまったのですよ。
目の前でこちらを見つめる顔、顔。当時の担当さんたちの顔が、いきなり40数年前に我が家アトリエに打ち合わせに、原稿催促に来ていたころの若い日の顔になっちまって・・・・・ 私の頭の中はその瞬間完全に40数年のワープ。あんなこと、こんなことがあったと、思い出がいきなり火山の噴火。
それが思わず絶句となった原因。
しゃべりも普段通りにできず、上ずって・・・・・ いやァ、こんなことってあるんですねぇ。正直にその感情を口にしました。
そうなんです、少年サンデーは特に描きたかった雑誌で、サンデーから仕事依頼されて初めて一人前。まだ駆け出しの頃です、私の中ではそのくらい位置付けでしたから。
編集長高柳(義也)さんの怖かったこと。
私、締め切り前に原稿を仕上げると評判があり、原稿催促の必要性がないことから、入社したての新人さんが担当に付けられてたってことや、食事は弟子、うちの家族と共に担当さんも一緒に同じ食卓で食べるシステム、同じ釜の飯を食う仲。それが美味かったとか、並んだメニューまで詳しくしゃべってくれる元担当さんたち。
いやァ、こんな楽しいOB会、あったンですねぇ!
40年前一緒に苦労し戦った仲間、戦友。絆は切れてなかったンですね。
感動の一夜でした。
一緒に勉強した仲間の集いが同窓会。私は勉強不熱心ですから仲間は少ない。OB会は苦楽をともにした、古い言い方をすれば言わば戦友。だからこちらには何を於いても出席します。それに“本当のOB”じゃないのに仲間扱いしてくれて、“名誉OB”と言って必ず呼んでくれる。うれしいねぇ。
代表的なのが三菱重工サッカー部OB会。年一度、グランド集合。試合やってその後が飲み、食い、ダベリって流れ。
私はこの三菱重工サッカー部(現浦和レッズ)とは日本リーグ、JFLといってまだプロ化される前からのファン。と、いうより私、元祖サポーターだと自負していますから当然練習場にまで見学に行く。そこで「選手からボールの蹴り方教わって今日の私があると言っても過言でもない」、なァ~んて言い回しつかってみました。が、それが私の30歳チョイ過ぎくらいのころ。その当時三菱とヤンマーの2チームから日本代表が出来ていたというほど2チームは名選手揃いでしたね。
そこでサッカーを教えてくれた一人が三菱の二宮監督だったわけで、その後日本代表監督になり、そのときの代表チームOB会に私も入っているわけで、二宮さんには足向けて寝れない私です。
その1年後くらいに杉山って三菱の選手が引退、「天皇杯で優勝して辞める」って12月に入って聞かされ、元日の天皇杯まで残り3試合もないじゃないですか!
当時は特にそのような発表もなく、アマチュアは静かに去るってのがカッコいいとされていた時代。しかし噂はファンの間に伝わり、元日の国立競技場、決勝戦。同時に引退試合。満杯です、国立競技場。サッカー人気が今ほどではない時代、凄いことです。
それも優勝して辞めると言い切って実現、胴上げされて引退なんて、やっぱり杉山隆一って持ってるンだなァ、と。・・・・・
そのまた一年後、杉山隆一復帰。今度は故郷静岡のヤマハ(現ジュビロ磐田)ってチームの監督兼選手。当時のヤマハは静岡県リーグってレベル。元日本代表が考えられないね。杉山とは友人ですから、当然ヤマハファンになる。
いやはや静岡は遠かったァ。東名高速道路とばして3時間。
ま、そういう縁でもいまだにヤマハOBメンバーだと、こちらも年一度の総会には呼んでもらってます。
ここまでは趣味。本業の方では本年3月、初OB会というものに出席しました。
『少年サンデーOB会』・・・・・ 2年に1回やってるそうで、今回が3回目。週刊少年サンデー創刊1号からの編集者さんたちの集まりで、最高齢は高柳元編集長85歳。当日は約30名。
そこへ毎回ゲスト漫画家を1名招待ということだそうで、初回が古谷三敏さん。2回目、さいとうたかをさん。そして私ってことだったンですね。
毎年暮れにその小学館忘年会パーティでお会いしてお話しが出来ていた編集の方も、近年、定年退職される方も多く、話す相手も少なく寂しい思いをしていたものですから、喜んで出席の返事をしましたよ!
当日、神田の中華飯店の会場へ。例のごとくノンキ者の私、時間3分遅れ。会場へ案内され、なんか知らない顔ばかりと瞬間は見えたのですが、席へ座り落ち着いて見渡し、挨拶の順番が回ってくるころには次々と顔とエピソードが判明、「歳、とったなァ」と。
マイク片手に第一声は思わず込み上げてくるものがあり、目がうるうるって、若い人の表現そのままになっちまったのですよ。
目の前でこちらを見つめる顔、顔。当時の担当さんたちの顔が、いきなり40数年前に我が家アトリエに打ち合わせに、原稿催促に来ていたころの若い日の顔になっちまって・・・・・ 私の頭の中はその瞬間完全に40数年のワープ。あんなこと、こんなことがあったと、思い出がいきなり火山の噴火。
それが思わず絶句となった原因。
しゃべりも普段通りにできず、上ずって・・・・・ いやァ、こんなことってあるんですねぇ。正直にその感情を口にしました。
そうなんです、少年サンデーは特に描きたかった雑誌で、サンデーから仕事依頼されて初めて一人前。まだ駆け出しの頃です、私の中ではそのくらい位置付けでしたから。
編集長高柳(義也)さんの怖かったこと。
私、締め切り前に原稿を仕上げると評判があり、原稿催促の必要性がないことから、入社したての新人さんが担当に付けられてたってことや、食事は弟子、うちの家族と共に担当さんも一緒に同じ食卓で食べるシステム、同じ釜の飯を食う仲。それが美味かったとか、並んだメニューまで詳しくしゃべってくれる元担当さんたち。
いやァ、こんな楽しいOB会、あったンですねぇ!
40年前一緒に苦労し戦った仲間、戦友。絆は切れてなかったンですね。
感動の一夜でした。
望月三起也 さんのプロフィール
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